現代日本人の神仏観(下) 〜アクセルの神、ブレーキの仏〜
(中日新聞・東京新聞 「人生のページ」 平成28年1月19日掲載)
「神」は特別な力やエネルギーの持ち主で、それを人々に授ける者である。一方、「仏」は慈悲深い存在であり、人々の欲望やエネルギーを鎮める存在である。前回の記事の中で、私は現代の日本人が抱いている神と仏の区別に関して、このような仮説を提示した。では、なぜ神と仏にそのような役割分担を想定できるのか。
まずは「神」の役割を考えてみよう。人々は、正月になると歳神から一年間を生きていくエネルギーである「歳魂(お年玉)」を授けてもらい、春には田の神から稲作のエネルギーをもらうために春祭りを行う。それ以外にも、例えば病気平癒や合格祈願の際には、神々から必要なエネルギーを与えられることを期待する。つまり、神々は人間にとって、エネルギーの供給源とも言うべき存在なのである。
このような神々を、私は三つのグループに分類できると考えている。複数のグループに関わる「神」もいるが、大まかに述べれば、山や川、海や太陽等の「自然神」、氏神とも称される「祖先神」、特別な力を持つ「人間神」の三つである。
一つ目の自然神は、自然界の様々な存在を「神」として崇めるもので、それ自体が巨大な力の持ち主である。それらは人間に様々な恵みを与える一方で、その力を暴発させて災いをもたらすこともある。そのため、人々は自然神に対して、恵みをもたらすプラスの力の発揮を祈るとともに、災いを生み出すマイナスの力の抑制を願うのである。
二つ目の祖先神に対しても、人々は子孫繁栄をもたらすプラスの力の発揮を祈り、子孫の断絶につながるマイナスの力の抑制を祈願する。
三つ目の人間神は、さらに三つの小グループに分けられる。第一は神田明神に祀られている平将門のように、社会の不安を煽った人、第二は日光東照宮に祀られた徳川家康のように、社会に絶大な貢献をなした人、第三は常人が持ち得ない技術や力の持ち主で、「野球の神様」もこの中に含まれる。いずれにせよ、人々はそれぞれの人間を「神」として祀ることで、各々が持っているプラスの力の発現を期待し、マイナスの力の抑制を願うのである。
それに対して、「仏」が人々の欲望やエネルギーを鎮める存在だという理由は、仏教の開祖である釈尊にさかのぼる。二千五百年前のインドに生きた釈尊は、瞑想を通して欲望や執着を鎮めることで悟りを開いた。しかも、その悟りの中身は、過剰な欲望や執着を制御することで、苦しみから逃れ、安楽が得られるというものであった。
この釈尊の時代から五百年ほどたった頃、インドで大乗仏教が生まれた。大乗仏教の特徴は、自らとともに、他者をも苦しみから救うことを目指した点にある。現代の日本人が「仏」という言葉に「慈悲深い人」というイメージを抱くのは、この大乗仏教の思想に由来する。しかも、他者を苦しみから救うためには、その者に苦しみをもたらしている過剰な欲望やエネルギーを鎮めなければならない。この「他者」という言葉が「国家」に置き換えられた時、仏による「鎮護国家」の思想が成立する。
わが国でこの理念が確立したのは奈良時代である。当時、仏が鎮めるべき主な対象は、国土に災いをもたらす自然神の過剰な力であった。しかし、平安時代になると、政敵に復讐する怨霊、つまり人間神を鎮めることが仏の役割に加えられた。仏に対して、人々は過剰な力やマイナスの力を発揮する神々を鎮めることを期待したのである。やがて室町時代になると、仏が鎮めるべき対象は無名の戦死者たちに広まり、後にはあらゆる死者に拡大した。こうして、今日まで続く「葬式仏教」の基盤が形成された。いずれにせよ、仏に期待された役割の一つは、一貫して過剰な力やエネルギーを鎮めることだったのである。
このように、人々は「神」に必要な力やエネルギーの供給を願い、「仏」に過剰な欲望や力の制御を求める。こうした神と仏の役割は、自動車のアクセルとブレーキに相当すると言えるだろう。アクセルがない自動車は動かない。しかし、ブレーキのない自動車は危険極まりない。この両者が適切に機能して、自動車ははじめて安全に運転することができる。それと同じように、人々は神と仏を適切に使い分けることで、幸せな日常を送ることができると感じているのではないだろうか。そうだとすれば、神と仏の双方に祈りを捧げる日本人は、「宗教」にふまじめではなく、むしろ厚い信仰心の持ち主ということになるのである。